無呼吸

自分をちっぽけだと思っている人がもがきながらも書く日記みたいなもの

清涼飲料水たちの紹介

虚しいから何か書こう。

 

手元にあるのは、夏目漱石の「こころ」だ。本当は志賀直哉の短編について書きたかったけど、どこかに行ってしまったようだからまあしょうがない。

 

私は、この小説に登場する「先生」が嫌いだ。なんで嫌いかっていうと、先生の生き方は、自殺する前から死んでいるのも同然だからだ。私は、今現在も必死に突然やってくる虚無感やら焦燥感やらと戦っているのに、先生は戦うのをあきらめた。大学を出て、家庭を持ったのに働かず、余裕で暮らしていける財産はあるからプー太郎をしている。先生が働かない理由に使っている、自己不信とか他人嫌いだって私からしてみればわがまま言っているんじゃないというものだ。だって、誰だって、友人を嫌いになったり、自分を嫌いになったりするときがある。それらとどうにか向き合って、建前でもいいから何かを目標を見つけて前に進んでいくのが現代社会の生きていく方法ではないのかな。結局、悩んでも答えなんてないものたちなんだから。だから、悩み苦しみながら生きていくのが正解のような気がする。

 

先生と彼の親友Kは、結局孤独に耐えられなくて自殺したように感じる。先生の遺書の中に、<自由と独立と己れとに充ちた現代>とある。自由に独立に自分。現在でも「自分らしく」とか「ありのまま」でとかいう言葉達は、それだけで希望とかキラキラした何かを持ってるように思える。けど、結局 Kも先生も自ら己れを追い詰めた。それって、聞こえのいい概念ばかり追って、結局のところ満たされない現代人のもろさに共通するような気がする。

 

で、やはり私が先生を気に入らないところは、先生にはKと違って自殺をしないという選択肢があったはずだからだ。さっさとこの世との繋がりを経ってしまったKと違って、彼は実質死んでいながらも生きていた。奥さんもいた。「私」という友人もいた。どうして、周りの人達との交流を通して心を許せなかったのだろうか? そりゃあ、自己否定ってものが、どれだけその人を孤立させ、頑なにさせるのか、私は私もそうだから理解している。けど、先生は先生だったのだからしょうがないという風な理屈は私にとって受けいれられないものなのだ。

 

「先生」について、つらつらと非難してきたが、漱石の「こころ」は一応私の好きな本である。(気に入ったものでなければ一番最初に紹介しない)「私」が何やら独特の雰囲気を持つ先生に惹かれることや親からの期待に辟易することには大いに共感できるし、「先生」を通して、人間の複雑な心情さらには現代人の危うさを描き切った漱石は凄いと思う。

 

思っていたことを、ある程度言葉にできたので、ここで終わりにする。

おやすみなさい。